2009年11月05日

貧しさについて

鳩山内閣は、経済的困窮者の姿が見えているような「博愛」(彼の言葉では友愛)的な言辞を国会答弁でも滔々と述べていた。
マニフェスト通りに政策が実行されたとして、果たして路上生活者が減るのだろうか。
天を突くような巨額な資産と黙っていても銀行口座に入金される額の大きさに、我々庶民は言葉を失ってしまう。本当に貧しい人たちのことを思うなら、なぜ率先して自らの資産の一部でも社会に寄付(シェアー)しないのだろうか。それこそが彼が考える「友愛政治」なのではないだろうか。
もう30年以上も前のことになるが、東北に取材に行ったときに、盛岡駅前焼き鳥屋で60歳を過ぎた労務者風の人と隣り合わせで飲んだ。万博で大坂に出稼ぎに行って、戻って来て、また米をつくっていると。「東北の農民で出稼ぎを経験していない者は誰もいないよ」と、しみじみと語る男性の顔は真っ黒に日焼けして、幾筋もの太いが顔全体を埋め尽くしていた。
「百姓は一生貧しい」という彼の言葉は、いまも私の脳裏から消えることはない。
この国は、「一億皆中流」と言われていた頃から、貧しい人はいたし、格差は厳然として存在していた。「それなりの豊かな生活」をしていた我々には縁のない話だと、見て見ぬ振りをし、見ようとしなかっただけだ。
路上にしか生きる場のない人たちを、鳩山政治はぼんやりと(悦に入って)憂いている(ポーズをきめ込んでいる)場合ではない。
いまそこにある貧しさの現実を「直視」しなければ、先の選挙で「政権交代」に期待をかけた我々の想いは踏みにじられてしまうのだ。

posted by 鶴 at 13:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月30日

裁判員にされない方法(続)

 今回は「『小説 恐怖の裁判員制度』補足」の第4回「続 裁判員にされない方法」を掲載します (井口哲夫)。



● 『小説 恐怖の裁判員制度』補足
 第4回:裁判員にされない方法(続)     雨宮惜秋

硬派の男性にふさわしい方法(しかし、女性が採用して悪い理由はありません)
 重要な用務について簡潔に書き記して、この用務は自分にとって最重要事項である。従って裁判所がこの重要性を否定して自分を呼び出しても、その召喚には絶対に応じない。過料については承知している。この用務は10万円くらいのことには代えられない大切なことだと考えている。それと同時に自分は裁判員制度は憲法違反だと思うので、過料の支払いについては最高裁まで争い、国の差押え命令に対しては「請求異議の訴え」「執行抗告」「執行異議」などのあらゆる手段を講じて争うべきかどうか、目下考慮中である。――と添え書きしておけば、もしも私が裁判長ならば、こんな厄介なうろんな人物をわざわざ呼び出そうとは思いません。
女性向きの非論理的な書き方(男性の場合には、それぞれの年齢や個性を考えて、不自然でないように工夫する必要があります)
 一応、重要な用務を書きます。そして――私はなにがあってもなくても裁判所には行きません。裁判なんてそんな恐ろしいことはできません。嫌です。ダメです。私をいじめないで下さい。毎日、気持ちが悪くて、心臓がドキドキして死にそうな気分です。裁判中にきっと、貧血を起こして倒れてしまいます。ヤメテ下さい。呼び出さないで下さい。私にヒドいことをしないで下さい。ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ下さい。――こんな具合に紙中に書き散らしておきます。裁判所側が少しイカれた変な女だと思ってくれたら成功です。裁判の進行にマイナスになりそうな人物をわざわざ呼び出したりはしないでしょう。

特に徴用拒否のための用務がない場合
 その人にとって何が大切なのかを決めるのはその人自身です。それが毎日の仕事であれ、商売であれ、老人の世話をすることであったとしても、それを裁判所が勝手に判断をするのは正しいこととは思えません。だから……裁判員を務めるつもりはない。絶対にやらないと、ハッキリ書いて意思表示だけは明確にしておきましょう。
 仮に呼び出しを受けて裁判所に出頭したとしても、その日半日だけのことで帰宅する作戦のそれは伏線になります。

裁判員徴用逃れ その4 「裁判員選任のために召喚されてからの徴用拒否作戦」
◆《作戦その1》
 裁判員選任の手続きは、裁判長と裁判官2名、検察官、弁護人の5人対裁判員候補1名という構図で行われます。この雰囲気に威圧されてしまったのでは万事おしまいですから、どのような手段をとるにしても腹を据えて最後までやり通さなくてはなりません。
 この作戦の基本的な考え方は、裁判所側が裁判員として嫌な人物、裁判員として採用したくない人物としてふるまうことにあります。そして裁判長がこんな人物はいらない、さっさと帰ってくれと思ってくれたならば、裁判員徴用拒否作戦は100%成功です。
 ここで注意すべきことは、断じて粗暴な言動に出てはならないということです。なにがあっても、どんなにムカついても、バカヤローとかブッ殺すとか、決して口走ってはなりません。机を叩いたり、立ち上がって怒鳴ったりしてもいけません。相手は裁判官と検察官ですから、そんなことをしたらそのままブタ箱に直行することになりかねません。あくまでも礼儀正しく穏やかな態度をキープしながら作戦を遂行します。率直に正面から自分の都合を述べて決意を示した場合に、裁判長は敢えてその人物を徴用するとは思えません。人材はいくらでもいることですし、裁判に参加したいと考えている人たちもいるのですから、嫌だとハッキリ言っている人間をはずす方が普通です。
 この場合大切なことは、あくまでも個人としての生活の都合と決意を述べるだけで、裁判員制度が憲法違反だとか、人権侵害だとか、死刑判決には同意できないとか、そういうことは一切口にしないことです。間違っても、法律上の論争に引き込まれないようにしなくてはなりません。相手はそのジャンルではプロ中のプロなのですから、相手の土俵に乗せられて、論駁され説得されてしまわないように注意して下さい。具体的には、次のような発言をします。
【例】「私は決して裁判員をやりません。私には重要な用務があります。誰がなんと言おうとも、それは私にとってはこの上もなく大切なことなのです。それに、そういう用務があろうとなかろうと、私は裁判員をやりません。わけなんかありません。嫌なものは嫌なんです。だから、今日私が裁判員に選ばれたとしても帰ります。二度と裁判所には来ません。今日はそれを申し上げるために参りました。以上です」
 このあとは、裁判長から何を言われようとも、嫌なものは嫌。帰ります、帰ります。もう来ない。――これを壊れたレコードのように繰り返していれば、大概の裁判長はあなたに感服して、あるいはあきれ果ててあなたの言い分を通してくれると思います。

◆《作戦その2》
 もしもあなたが見るからに頼り無さそうなシャイな女性ならば、その性格のままに、むしろそれを強調してふるまうことです。自制する必要はありません。しっかりなんかしなくてもいいのです。性格のままにビクビクオドオドしながら着席してなにを聞かれても、うわの空で返事をしながら頃合いを見計らって突然泣き出してしまうというのは有効な方法です。
【例】「わたし、裁判員なんて、裁判なんてできません。ごめんなさい、ごめんなさい。でもできません。こわいのです。ごめんなさい、ごめんなさい。でもダメなんです。どうしてわたしなんか呼んだんですか。ひどいわ、ひどいわ。わたしをいじめないで下さい。あっ、変なことを言っちゃって、ごめんなさい。(泣き出す、エーン、エーン)」
 こういう難儀な女性をもてあまさずに裁判員にしようと思う裁判官はまずいないと思います。

◆《作戦その3》
 敢然と自己主張をするのは苦手、泣いたりするようなパフォーマンスなどとてもできないという場合には、最後の手段として酔っぱらって出頭するという手があります。別段へべれけに酔っぱらってしまう必要はありません。飲んでいるということが裁判長に分かればそれでいいのです。極端な言い方をすれば、霧吹きで酒を上着に吹き付けておいて、眠そうな顔をしていても効果は同じでしょう。
 裁判長に「あなたはいつも酒を飲んでいるのか」と質問されたら「昔から晩酌をやっているけど飲み過ぎたことはない。質問票が来て以来はいささか酒量が増えたかもしれないが、それでしくじるようなことマネはしていない。大丈夫です。大丈夫です。まかして下さい。へっちゃらですよ。大丈夫。大丈夫」と大丈夫を繰り返しながら眼をカッと見開いて、宙の一点を凝視しながら茫然としているか、腕を組んで下を向いているか。わけもなくニコニコしているかすれば、数分と経たずに退室を命じられると思います。
 考えられるパターンは、この3種類くらいです。なによりも礼儀正しくふるまって裁判長に嫌われるように仕向けることがポイントでは。自分にふさわしい方法をご自身で工夫してみてはいかがでしょうか。

 では、皆様のご健闘を祈ります。
                              Good Luck!

posted by 鶴 at 11:27 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月20日

裁判員の徴用から逃れる方法

 今回は「『小説 恐怖の裁判員制度』補足」の第3回「裁判員にされない方法」です。少し長いので2回に分けて掲載します。
 本日、いよいよスタートしました。19日には2時間ドラマがテレビで放映されたり、メディアはムードを盛り上げるべく、こぞって特番や特集を組んでいるようです。これまで反対を口にしていた有識者(?)なども「スタートしたのなら円滑に進むことを望む」とか「成功を期待したい」というようなコメントを吐きはじめています。「徹底反対」「徹底抗戦」というトーンとはかなり違うみたいです。ソクラテスの「悪法も法」とでも言いたいのでしょうか。雨宮惜秋はそういう簡単に翼賛されてしまう生半可なインテリ(?)諸君とは全く違います(井口哲夫)。



『小説 恐怖の裁判員制度』補足
 第3回:裁判員にされない方法        雨宮惜秋


 最近になって私は、政府と行政当局は今まで私が認識していた以上に凶暴で危険な存在なのだと思うようになりました。なぜ、私がそのように考えるようになったのかというと、政府と行政当局は4月23日の深夜に泥酔して公園で裸になったテレビタレントを逮捕留置してその上に自宅の家宅捜索までやったからです。しかもそれだけでは飽き足らず、政府の要人がマスコミを通じてそのタレントの人格までもクソミソにこき下ろしたからです。
 本来ならば、この事件はトラ箱入りで酔いが冷めるまでこのタレントを保護してやり、素面に戻るのを待って調書をとって帰宅させるという程度の、単なる酔っぱらいの不始末でしかありませんでした。
 明らかに当局は事件を作り上げ拡大し、なんらかの目的を持ってこのタレントを血祭りにあげるべく行動したのに違いありません。家宅捜索までやったのがその証拠です。私は当局の意図とは、当時マスコミの集中砲火を浴びせていた政治家の複数の金権汚職事件から世間の注目をそらそうとするところにあったのだと思っています。恐怖政治はすでに始まっていると考えなくてはなりません。
 当局の都合によってとるに足らない些細な落ち度を引っ掛けられていつブタ箱に放り込まれるか分からないという、そんな恐るべき時代が到来したのだと思います。そうだとすれば、挑戦的・挑発的態度で裁判員拒否の行動に出るのは作戦的に得策ではないように思われます。
 何といっても危険な相手と対峙するに当っては、それ相応の慎重さが必要だと思うからです。それに裁判員に徴用されるのは法律の素人ばかりですから、その意味でもなまじっかの法律論を振り回して、逆に裁判所側につけ込まれないように注意しなければなりません。裁判員制度という異様なシステムに対しては、できる限りかかわらないように工夫するのが、最も安全な方法であり、態度でしょう。
 なお、裁判員制度の運営に直接従事するお役人の本音と関心事を理解しておくことは大切です。それがどのようなことかというと、国民からは総スカンを食らっているこの危なっかしい新制度が何とか順調に開始されて大過なく進行してくれること、そして何らかのトラブルが発生したとしてもその責任を自分がとらずにすませたいと考えているはずです。これは役人一般に共通して言えることです。そこでこの点にコミットして、徴用逃れを工夫すればかなりの確率で成功できるのではないかと思われます。実務に携わる事務方の役人の背後に潜んでいる“巨悪”とは直接の対決は避けた方が賢明だと考えます。何といっても個々の人間はあまりにも小さくて傷つきやすい存在なのですから。

裁判員徴用逃れ その1 「門前払い考察」
 昨年発表した私の『小説 恐怖の裁判員制度』の中で述べた《召喚状の受取り拒否作戦》を、今回この場で訂正し、推奨しないことにします。質問票や呼び出し状に対して、この受取りを拒否して返送する、あるいは受け取っていない、どこかで紛失してしまったのかも知れないが、自分は知らないなどとしてシラばっくれてしまう方法は、実際問題としては有力な方法ではありますが、制度の背後に潜む“巨悪”がこのような方法に対してかなり神経をとがらせているように思われるからです。
 質問状の受取り拒否による返送に対しては「強引な召喚」を行い、郵送されていない、知らないという逃げに対しては「事実関係を証明して厳罰主義の報復」に出るという可能性がわずかですがあります。裁判員制度が無事に始まって国民が従順にこれに屈服するまでは、当局には報復を実行する余裕はないはずですが、その意図は常時あり続けると思います。より合理的で安全な方法を工夫したいと思います。

裁判員徴用逃れ その2 「不出頭について」
 裁判員候補者として呼び出されたのに、出頭しなかった場合には、最高10万円の過料が命じられます。ところが、この10万円の過料は、ほかの懲罰に比べて格段に罰則としては軽いのです。罰金には前科がつきますし、守秘義務に違反すれば懲役です。しかもその守秘義務たるや一生涯の義務なのです。もしも裁判員を務めて10年後に忘年会の席上で昔語りに裁判について話したとします。それを誰かにチクられたらブタ箱に直行することになります。
 このようなことを考慮すれば10万円の過料を支払うことによって複雑怪奇な裁判員法の懲罰をクリアーしてしまうのは、賢明な方法だといえるでしょう。
 面白いことに過料については理論上はこれを支払うことを拒絶して、ほぼ無限に争い続けることができます。このことについては、元判事である西野喜一氏の著書『裁判員制度の正体』(講談社現代新書)に詳述されています。次に要約します。
 過料の支払いを命じるのに当って、裁判所は検察官と当事者の意見を聴取した上で金額を決定しなければなりません。これが不服ならば当事者は高裁に上訴することができます。高裁の支払い命令に対しては、裁判員制度は憲法違反であるという理由で、最高裁に不服申立てすることができます。最高裁でこれが退けられたとしても、この過料を支払う必要はありません。その場合、国は当事者から強制的にこれを取立てなければなりませんが、そのためには国は強制執行の申立てをしなければならないのです。つまり国は差し押さえをして過料を取立てなければならないのですが、これには対抗措置があって「請求異議の訴え」「執行抗告」「執行異議」などを繰り出して争い続けることができます。訴訟マニアにとっては生涯のゲームになるかもしれません。
 もしもまともな野党とかつての総評のような労働組合が存在していたならば、これらの組織のバックアップを受けながら裁判員制度に反対する人々が全国規模で不出頭による過料不払い闘争を展開したならば、裁判員制度を粉砕することなどは朝飯前の仕事だったのにと、思わずにはいられません。しかし今や国民は誰もが個人として孤立しています。自分の身と生活は自分の力で守らなければならないのです。
 さて、これらの事柄を踏まえて裁判所に呼び出されずにすむ方法を考えます。裁判所からの呼び出しの手続きは次の通りです。
―――裁判が3日程度で終わる事件の場合、地裁は呼び出し状と質問票を同封し、裁判員候補者に初公判の6週間前頃に発送する。呼び出し状には裁判員を選ぶ選任手続きの日時やその後の公判日程を記載。候補者は質問票に裁判員になれない職業についているかどうかや辞退希望の有無を書いた上で10日以内に返送する。辞退を希望する場合は、仕事や家庭の都合など具体的な事情を記載する。
 裁判が長期にわたる場合は、各地裁は選任手続きの8週間前頃にまず質問票のみを送付。返送された質問票の内容を見た上で、参加に支障がない候補者のみに呼び出し状を送付する。呼び出し状が届いたのに正当な理由がないまま選任手続きを欠席すると10万円以下の過料となることがある。質問票に虚偽の記載をすれば30万円以下の過料か50万円以下の罰金―――となっています。
 
裁判員徴用逃れ その3 「質問票の書き方」
―――辞退を希望する場合は、仕事や家庭の都合など具体的な事情を記載する―――ということですから、その通りに簡単明瞭に書き記します。その上でこのような人物を召喚するのはなんらかのトラブルの元になりかねないと事務方の役人が考えるようなメッセージを送ります。

辞退事由に該当する場合
・70歳以上の者――はその旨を書き記して辞退すればよいでしょう。
・ 重い疾病・障害のあるもの――は辞退と記載して医師の診断書、障害者手帳のコピーなどを同封すれば完璧でしょう。
・ 同居の親族の介護養育に当っている者――同居の親族の介護については病人のそばを離れるわけにはいかないとだけ記載して医師の診断書を添付すればそれで十分だと思います。しかし同居の親族の介護養育に当っている者については単純に辞退を認めるとは思えません。なにしろ裁判所内に託児施設を作っているところまであるそうですから、当局は国民皆徴用に異様な執念を燃やしているように思われます。まだ赤ん坊で授乳やオムツの取り替えを必要としている年齢ならば無理にも出頭しろとは言わないでしょう。そのことをハッキリと書いておきましょう。保育園や幼稚園くらいの年齢の場合には、ひと工夫が必要だと思います。この場合には、子供の養育には神経過敏になっている母親という立場でコメントしておくのが上策だと思います。裁判所から質問票やら呼び出し状などが送られてくれば、神経質になるのは当たり前ですからそこを強調します。
例えば、母親である自分はもともと神経過敏で臆病なために裁判所からの書類を受け取って以来すっかり神経がまいってしまった。子供もそのためかコンディションを崩したりしている。自分には裁判なんて恐ろしいことはできない。まして子供と離ればなれになるなんて心配で心配で裁判なんてできない。途中で退席してしまうだろう。自分を呼び出さないで下さい――というように、しつこく細かい字でびっしりと書き込んで、こんな神経質な人物を呼び出したらトラブルの元だと思わせることができれば成功です。
・ 仕事上で重要な用務を抱えている者、父母の葬式その他社会生活上重要な用務を抱えている者――この場合、父母の葬式についてはここでのテーマにはなりません。社会生活上重要な用務については、それを判定するのは裁判所当局です。最高裁判所制作のCMドラマを見る限りでは、一般市民には仕事上も社会生活上も重要な用務などというものは99%存在しない、という立場で臨んでくるものと思われます。そこで、どのように対処するかですが、次の2種類のやり方が考えられます。

以下は、次回に。

posted by 鶴 at 16:29 | Comment(5) | TrackBack(1) | 日記

2009年05月15日

六十数年前に徴兵拒否をした男がいた

 今回は「『小説 恐怖の裁判員制度』補足」の第2回目「徴兵拒否を実行した信念の人」です。戦前の日本は国中が「非常時」体制を国家から強要され、国民も隣組や愛国婦人会などによってこぞってそれに応え、協力したのでした。
 国民総動員法のもと国民徴用令は、否が応でも当時の日本国民の全て(男子)に兵役の義務を課しました。大日本帝国(天皇の国家)は召集令状(赤紙)一枚で有無を言わさず男たちを根こそぎ戦場に追いやったのです。そんな血も凍るような軍国ファシズムの時代に、兵役を逃れるということは半ば「死」を意味していました。結核などの病気で兵役が免除された者は「非国民」「国賊」「国辱」として、日本人(天皇の赤子)とは認められず、あらゆる社会的活動や資格を剥奪され、地域は愚か親類縁者たちからでさえも疎外され迫害されたのです。
 ところがそんな圧政の中にあっても果敢にも徴兵拒否をした人物がいたのです。すでに戦後六十数年の間に歴史の彼方に忘れ去れた人でした。作家・雨宮惜秋氏は累々たる歴史の墓場から「その人」を掘り起こし、彼の畢竟の力作、政治的私小説『囁く葦の秘密』のなかに蘇らせました。
 歴史の闇の中に葬り去られた「勇気ある行為」、どんな強大な権力にも決して屈しなかった硬骨の「人」がとった「徴兵拒否」の行為とは……?
 国家の力がますます個人を抑圧してきている現代にあって、六十数年前にこの人物がとった行動は、大きな参考になると思います。とりわけ裁判員に徴用されることを拒否するための一つの方法として。(井口哲夫)


● 『小説 恐怖の裁判員制度』補足        雨宮惜秋
第2回:徴兵拒否を実行した信念の人

 彼はマルクスの『資本論』に心酔し、反戦平和を信条とした人物で名前を大谷竹山といいます。彼は少年時代には神童とまで呼ばれたほどの秀才でした。そして、痩せっぽっちの小男でメガネなしには何にも見えないほどの極度の近眼でした。従って彼の徴兵検査は丙種でした。しかし、そんな彼にも召集が来たのです……。
 以下、政治的私小説『囁く葦の秘密』より再録します。


 昭和十九年秋、大谷竹山は出張先の札幌事務所で、妻からの一通の電報を受け取った。
 ……ショウシュウ レイジョウ クル
   スグカエレ       ヨシコ
 遂に来るべきものが来たか、という思いと帝国主義者どもの犠牲にされてたまるものか、という憤りとが、大谷の頭の中を駆け巡った。大急ぎで帰り仕度をすませると、札幌駅へ向かう道すがら、こみあげて来る憤激を確かめながら彼は必死で思案した。『兵隊なんかにされてたまるか。鉄砲を担いで殺されるくらいなら、このままくたばった方がまだましだ。よしッ』心を決めた大谷竹山は、駅通りの薬店で二瓶の蓖麻子油(ひ ま し ゆ)を買った。
 見とがめられないように注意して、彼は駅の便所に入ると、その一本をグイグイと飲み干した。しばらくすると猛烈な下痢が始まった。列車の中では、彼は便所の前に立ち通しでいた。とにかく蓖麻子油は大谷の予想以上に良く効いた。彼は引っ切り無しに便所に行き、函館から青函連絡船に乗り継いだ頃には、腹の中は空っぽで、はらわたまでも全部垂れ流してしまったような気持だった。
 連絡船の中では、今度はひどい船酔いに襲われた。しかし大谷の体の中には、吐くものも下るものも、何も残っていなかった。まっ青な顔をして、背中を丸めながら、彼は呻(うめ)き続けた。『これくらいの事では、まだ駄目だ。兵隊にとられるくらいなら、このまま死んだ方がましだ』彼は帝国主義者を呪いながら青森に着いた。大谷竹山は、再び駅の便所に身を隠すと、もう一本の蓖麻子油を飲み下した。
 げっそりと頬がこけ、眼玉ばかりをギラギラさせながら幽鬼さながらの姿で、昼も夜も列車の便所の戸にもたれながら、彼は立ち続けた。もうろうとした意識の中で、彼は一人で凱歌をあげた。
『おれは遂にやったぞ。これで絶対に兵隊には取られない。おれは帝国主義者を出し抜いてやったのだ』
 立ち続ける事が、今となっては彼にとって生きる証(あかし)となった。もしも床に倒れたら、彼は二度と再び立ちあがる事はできなかったであろう。確かに彼の思惑どおり、徴兵忌避作戦は成功した。元々が痔を患っていた大谷は、かなり重症の脱肛を発症したのである。
 ─作戦成功。もしも生きて家に帰り着くことさえできるならば─
 息も絶え絶えに、油汗を流しながら、大谷竹山はヨロヨロと歩いていた。やっと聞き取れるくらいの、しわがれた声で彼は言った。
「雨宮君、おれにはこの坂道が登れない。もう駄目だ。検査場に行き着けなければ、やはり銃殺されてしまうのだろうか。帝国主義者のチクショウめ」
 麻布の練兵場に向かう長いだらだら坂を、大谷は歩き続ける事ができなかった。
「おい、しっかりしろよ。心配いらんよ。どんな性悪の軍医でも、君を兵隊に取ろうとは思わないさ。とにかく歩け。おれが後(うしろ)から押してやるから、倒れずに歩き続けてくれ。さあ、歩け、歩くんだぞ」
 雨宮富平が支えながら、押しながら、二人はのろのろと歩き続けた。
「次、次はどうした。大谷竹山はどこだ」
「はい。ここであります。大谷竹山です」
 フラフラとよろけながら現れた大谷を見て、軍医は思わず息を呑んだ。まっ青な死人のような顔、ギラギラ光りながらも定まらない視線、とび出した頬骨に、ひび割れた口唇。まさに、墓場から掘り出されたばかりの幽鬼さながらの小男を、軍医は愕然として凝視した。そして喚(わめ)いた。
「貴様ッ。ここへ何しに来た。帰れッ。さっさと帰れッ。こんな所で死なれてたまるかッ」
 検査場の入口付近で待っていた富平の所へ、大谷竹山はフラフラと歩み寄った。彼は神経がやられてしまったような、押し殺したクスクス笑いを漏らしながら、帰ろう、帰ろう、雨宮君帰ろう、と歌うように言った。よろめきながら検査場を出ると、なおも含み笑いを漏らしながら、彼はスタスタと歩き始め、ダラダラ坂に差し掛ると突然喚声をあげた。そしてその坂道を大谷竹山は一目散に駆け降りて行ったのである。
「万歳、万歳、万歳。雨宮君、今夜は祝盃だ。万歳。バンザーイ」
*   *   *

posted by 鶴 at 13:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月08日

裁判員の徴用を本気で忌避するには

 今回は政治的私小説『囁く葦の秘密』『小説 恐怖の裁判員制度』の著者であり、当HPでもお馴染みの雨宮惜秋先生の文章を掲載します。『小説 恐怖の裁判員制度』が刊行されたのは昨年の7月でしたが、その後くじで選ばれた裁判員候補者に質問状を同封した呼出状(召集令状)が発送され、それを巡って様々な報道が新聞・雑誌テレビなどで行われました。特に、本書の骨子でもある「呼び出し状を受け取らない方法」について、「裏をかいた」のでしょうか、特別送達を普通郵便に切り替えて、「受け取り拒否」ができないようにしてしまったようです。おそらく事前に本書や井上薫、西野喜一、高山俊吉の著作からヒントを得たのにちがいありません。
 そこで、雨宮惜秋先生は『小説 恐怖の裁判員制度』において書き漏らしたこと、その後の展開で起きた変化などに対応すべく、「補足的」な意味合いも込めて、私のブログに「『小説 恐怖の裁判員制度』補足」として文章を寄せて下さいました。
 今回を含め、3回の連載を予定しています。
 第1回:恐怖政治の序曲「裁判員制度」
 第2回:徴兵拒否を実行した信念の人
 第3回:裁判員にされない方法

“世紀の悪法”ともいうべき「裁判員制度」がなし崩し的に5月21日からついに始まります。このままでは「戦前」のような国家主義によるファシズムが招来されないともかぎりません。強い気持ちと正確な眼力で「裁判員制度」と向かい合うことが必要だと思います。(井口哲夫)


● 『小説 恐怖の裁判員制度』補足
        雨宮惜秋

1. 恐怖政治の序曲「裁判員制度」
 5月21日から「裁判員制度」がはじまります。私は「裁判員制度」とはアメリカによる日本改造計画の大きな柱であると認識しています。アメリカは、日本を徹底的に支配し搾取をする目的で、日本政府に命令してこの制度を作らせたのです。
 愛国者法という法律が制定されて以来、アメリカはヒトラーが支配したナチスドイツ以上の軍国主義的全体主義国になり下がってしまいました。この政治形態こそが、アメリカを実効支配しているスーパーリッチの望むところでした。国民を恐怖政治の中に囲い込んで、絶対隷属を強制できる制度こそが、スーパーリッチによる政治的支配と経済搾取を永続させる手段だからです。
 日本の国を、アメリカの絶対支配のもとに置くための第1歩として行われたのが、郵政民営化を旗印にした構造改革でした。これによって貧富の差が拡大し、数多くの失業者が出現し、福祉や医療がズタズタにされてしまいました。そして今度は「裁判員制度」です。
 この制度は、懲罰を振りかざして国民を脅し上げながら全ての国民に制度への参加を強要するというところに特徴があります。その意味するところは、国家に対する絶対服従を国民に習慣づけることなのです。つまり「裁判員制度」の本当の目的は、民主主義を破壊し憲法を空洞化させ、そして日本を好戦的全体主義へ誘導しようということなのです。これは国家が国民に対して仕掛けた史上最悪の謀略です。
 国民を悲惨な状況に突き落とすために発明されたこの「裁判員制度」は、驚くことに与野党の全会一致で可決成立したのです。つまり今や日本には、国民の安全と幸福を守ろうとする政党はないのです。存在するのは、自・公・民というアメリカの下僕と、社民・共産という大政翼賛会だけであって、彼らは国民の税金を使いながら不毛の政治ごっこをやっているにすぎません。
 このような認識から私は『小説 恐怖の裁判員制度』を出版しました。「裁判員制度」の毒牙にかかって投獄されたり、失職したり、死刑判決に加担したというプレッシャーから精神に変調をきたしたり、あるいは被告人が暴力団員だった場合などにはその仲間に付け狙われてひどい目に遭わされたりしないように、という思いからこの小説を書きました。何が裁判員の身の上に起ころうとも、政府や裁判所は決して守ってはくれません。個人が自分自身で身を守る意外にはないのです。
 この小説を書いた時点では、自衛のための最善の方法は裁判所からの召集令状に対して受け取り拒否をすることによって制度へのかかわりを一蹴することができると考えて小説の中でも書きました。
 受け取り拒否を違法とする法律はありません。従ってこの行為を処罰することはできません。しかし、これに対して最高裁は質問票を返送しないものは「1年中のどの時点でも、裁判員を務めるに当って、なんらの支障がない、という意志表示をしたものとみなす」という意味の見解を読売新聞紙上に発表したのです。これはこじつけであり恫喝です。法の番人であるべき最高裁が違法のデパートともいうべき「裁判員制度」を強要しているのですから、これくらいの脅しをかけてくるのは当然ですが、『小説 恐怖の裁判員制度』を発表した以上は、裁判員徴用をパスしてしまう自衛手段について、再度詳細かつ具体的に語るべきではないかと考えた次第です。
 徴兵制度には多くの場合、良心的兵役忌避が認められています。「裁判員制度」にはこれがありません。制度の目的が、民主主義を破壊して思想統制を行うことにあるからです。
 このような状況を認識した上で本気で裁判員に徴用されることを拒絶するつもりならば信念を持って腹を据えてかからなければなりません。中途半端な気持ちで事に当たると逆に痛い目を見ることにもなりかねません。なんといっても、これは巨大で邪悪な国家権力に対しての個々の人々それぞれの「孤独な闘い」にならざるを得ないからです。
 戦前・太平洋戦争末期の頃に、自らの信念に従って敢然として徴兵忌避を貫いて成功した人物がいました。彼は私の父の幼なじみでした。その人も私の父も既に亡くなって久しくなりますが、私はその人物が大日本帝国を相手にまわして行った徴兵忌避のエピソードを政治的私小説『囁く葦の秘密』の中で書きました。この話は国家権力に対峙するに当って、きっと皆さんの参考になるに違いありません。
 次回はそのエピソードを紹介することにします。

posted by 鶴 at 16:22 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2009年04月28日

日本は本当に民主主義の国家なのだろう

林真須美被告の死刑確定に関するニュースの扱いが思ったほど大きくない。反響も意外に少ない。国民の大半は「死刑」でいいのだと得心したのだろうか。
ちょうどその翌日、草g事件に新聞もテレビも雑誌も狂奔して、千葉市長の犯罪も陰に隠れてしまった。国民にとってもっと重要なニュースを隠蔽するために仕組んだかのような印象さえ受けたほどのタイミングであった。
かつて有事法案を通すために国民の目を全く違う方向に向けさせておいて、その隙を見透かすように国会で強行採決したことがあった。草g剛さんの自宅まで捜索したというのは一体どういうことなのか。それほど事を大きくしなければいけないほどの「事件」だったのだろうか。お茶の間を釘付けにしなくてはならない「理由」でもあったのだろうか。
どうしても国民の目を違う方向に向けさせなければならない陰険な「意図」を感じてしまう。権力にとって彼の「全裸事件」は格好の「ネタ」であったのだろう。そんなことは全く知らずに自宅と勘違いして深夜の公園で全裸一人芝居をしていた草g剛さんこそ、国民にとっては違った意味で「傍迷惑」だったといえそうだ。とはいえ、彼の事件がなかったとしても違った「案件」をでっち上げていたのかもしれないけれど。
話がそれたが、林真須美被告の死刑確定のニュースはそれほど「当然でしょ」と納得できるようなものなのだろうか。「状況証拠」は限りなく「クロ」のように見えるからといって「有罪」というのは、やはり早計ではないか。物証もなく自白もない、犯行目撃者もいないのだから、限りなく「クロ」に近くても更なる審議が必要なのではないだろうか。もちろんこれは法律の専門家でもない素人の私が言っていることなので、判決を下した裁判長に「素人が何を言っておる」と一喝されそうだが、「裁判員制度」は、その素人が審議し裁くのですよ、裁判長殿。そのことをお忘れにならないように。
佐藤優の『国家と神とマルクス』(角川文庫)に「日本の刑事裁判は起訴された事件の内、なんと99.9%が有罪になる。この有罪率は旧ソ連よりも高い」とある。恐怖政治下の旧ソを凌ぐというこの数字を見ていると、日本は本当に民主主義の国家なのだろうかと思ってしまう。

posted by 鶴 at 14:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月24日

状況証拠だけで有罪。「疑わしきは被告人の利益に」はどこにいったのか。

毒物カレー事件の林真須美被告の死刑が確定した。
10年間の審議の結果、1、2審ともに死刑の判決。さる4月21日に最高裁で上告審判決が出された。裁判長は「鑑定結果や状況証拠から被告が犯人であることは証明された」(東京新聞朝刊1面)と述べ、同被告の上告を棄却した。物証による決め手がないまま、状況証拠のみで犯人と断定されたわけだ。一貫して「無罪」を主張し続けてきた林被告の「声」は結局受け入れられることはなかった。
裁判長の「合理的な疑いを挟む余地ない程度に証明された」(同前)という言葉は今ひとつ歯切れが悪くはないだろうか。
「疑わしきは罰せず」とは刑事裁判において、ある事実の存否が判然としない場合には被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をするというのが一般的であるはずだ。「疑わしきは被告人の利益に」という原則を無視してまで、林真須美被告を犯人と断定したのは、素人目にも判然としない。
「人付き合いも人柄も良くないし、きっと犯人にちがいない」「日頃の言動や過去の前科などから考えてあの人しかいないはずだ」という被告に対する世間の「噂」や「風評」などに、よもや司法の責任者が惑わされたのでもないだろうが、「動機」もはっきりとしない上に自白もなければ、被告が実際にカレーにヒ素を入れるところを目撃した人もいないにもかかわらず、犯人と断定し極刑を宣告するというのは、あまりにも理不尽であるような気がしてならない。もっと審議を重ねてもいいのではないか。林被告が「無実」を主張している以上、真犯人の可能性もないとは言えないだろう。
日頃の行いが悪いから「自業自得」というような感情論で一人の人間を裁くとしたら、歴史は何百年も逆戻りしなければならない。
それにしても5月からはじまる裁判員制度において、こんな複雑な事件の審議を素人が集まって短期間で果たしてできるのだろうか。「推定無罪」ではなく、「推定有罪」を前提とした裁判になるとしたら、まさに「暴君ネロ」の恐怖政治の再来であり、ナチスの亡霊が歴史の深い墓所から彷徨い出はじめたと言わざるをえない。
たしか冤罪を防ぐためと、裁判員制度発足の目的にはあったが、今回の毒物カレー事件の裁判を見る限り、ますます冤罪が増えるような気がしてならない。

posted by 鶴 at 15:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月13日

鵺のように忍び寄る権力

「きょうびの権力とは、おそらく可視的な単体ではありえない」辺見庸の言葉だ(3月5日東京新聞夕刊)。横浜事件のような言論統制による国家権力の直接暴力行使はないということだろうか。おそらく目に見えるような形では権力は姿を見せないということであろう。それほどに巧妙になっているのに違いない。戦後の一時期、GHQの命令で「黒塗り」の教科書というのがあった。70歳を過ぎた人たちは記憶にあるだろう。権力がこういう形で可視的であれば、それなりの対応策は考え得るのかもしれない。「裏をかく」こともできるであろう。権力を欺く巧妙なレトリックも意味をなす(黒尽くめの衣装で大政翼賛会の忠実な一員になりすましていた花田清輝のように)。
ところが「鵺」のように音も立てずに気配すらさせずに忍び寄ってくる権力の姿は我々には見えない。いまがそんな時代であるとすれば、我々は自らの知力や想像力が錆び付かぬように絶えず「手入れを」怠ってはならないだろう。
辺見氏は「権力(なしし戦争)は、―中略―われわれの無数の合意、無数の無関心、無数の断念、無数の倦怠、無数のシニシズム、無数の沈黙をいちばんの養分にして、ある日むくりと巨体をもちあげてくるのである」(同前)と退廃と退嬰のムードが漂い荒廃し続ける現代に対してシニカルなコメントをしている。
また、氏は著作の中で大新聞やテレビなどのマスコミは既に翼賛し、死臭を放っていると書いている。それに群がるジャーナリストたちを「糞バエ」とも。
現在、権力が仕掛けている「裁判員制度」「エコロジー」のまことしやかな言説の「本意」を、僕たちは「真面目に」考えなくてはならない。

posted by 鶴 at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年02月24日

リーマンショックと裁判員制度

ずいぶん久しぶりにブログを書く。書くことが多くて、何を書いても書き足りないもどかしさを感じて書かずにいるうちに、約半年が過ぎてしまった。
裁判員制度反対が盛り上がりをみせはじめ、裁判員候補者名簿が郵送され通知文書を受けとった「候補者」たちの問い合わせが裁判所に殺到するなど、いよいよ「裁判員制度」についての国民の関心が本格的になってきたかと思っていた矢先、想像すらもしなかった「リーマンショック」。海の向こうの遠くて非常に近い親戚のような「同盟国」アメリカで、世界中を震撼させ、混乱に陥れるような凄まじい出来事が起きてしまった。「起きてしまった」なんていうと、大地震ハリケーンのような人間にはどうすることもできない(防ぐことができない)自然災害のように聞こえるが、果たしてそれは紛れもない「人災」であった。市場原理に過大な信仰を持つ「新自由主義経済」がついに行き着くところまできてしまった末に破綻したのである。「金融資本」などという得体の知れない「怪物」に跋扈され、3億2千万人のアメリカ国民が多かれ少なかれ、そのとばっちりを受けた。「グローバリズム」の美酒に酔いしれ、「金融資本」という果実をたらふく味わい尽くしたアメリカの「超リッチ」な2百万人の年収が3億2千万人のそれに匹敵するというのだから、アメリカという国は一体どうなっているのだろうか。しかも、驚くことに、5千万人のアメリカ国民は健康保険に未加入で、病気をしたら「おしまい」……「生きる権利」さえも剥奪される。なぜこんな近代以前の国になってしまったのか。政治家は一体どうなっているのか、なにをしてきたのだろうか。
では、日本は「対岸の火事」とうそぶいて、アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく……などと暢気なことを言っている場合では、もちろんないことは、いまや国民の誰もが識っていることだ。アメリカが瀕死の重傷ならば、高熱に喘いでいるとでもいおうか。アメリカの今は近未来の(明日かもしれない)日本だということは、「衆愚」である僕たちにだってうすうすだが分かっている。ところが、裁判員制度も実はその愚かなアメリカの歩いてきた道をなぞって行くシナリオの重要な一つであり、「地獄」への片道切符であることには、残念ながら気付いている人はあまり多くない。いや、そうではなくて、気付いていても声を上げないから分からないだけなのかもしれない。そうであってほしいと願わざるをえない。ひょっとして、こんがらがっているたくさんの糸を解きほぐしてみると、その糸は一本だったりするかもしれない。

posted by 鶴 at 16:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月01日

裁判員制度を本気で考える<その5> 「おかしいと感じることが、おかしい」と言うのはやはりおかしい

団塊の世代、全共闘世代…昭和24年生まれの私は、初対面の人からときどきそう呼ばれることがある。確かに世間ではそう言われても違和感のない表現ではある。ただ、そういう風に言う相手の心情というか意図は、どの辺りにあるのだろうかと、たまに思うことがある(意地悪く)。つまり、果して肯定的・好意的に言っているのだろうかと。ひょっとして逆ではないのだろうか(私はいささかひがみっぽい性格なのかもしれないが)。
「団塊の世代、全共闘世代」のお前たちが日本の社会をだらしなくダメにしてしまったのだ。あんなに国家や社会に反旗を翻し「ノー」を突きつけたのなら、どうして徹底して闘い抜かなかったのかと。揃いも揃って都合良くみんなで会社勤めをして、高度成長の旗頭になって、臆面もなく戦後日本資本主義を支えたのだ。表面的には戦後経済成長の功労者などと呼ばれて、やにさがってはいるが、実のところは何も考えずに、いわゆる「企業戦士」として操り人形のように踊らされ、宥めすかされて働く「勤労マシーン」として好いように使われてきたに過ぎないのじゃあないか。いまの日本の社会を悪くしてしまった張本人はお前ら「団塊の世代、全共闘世代」なのだと。
凶悪犯罪の青少年たちもいってみれば「団塊ジュニア」が多い。なぜ、そんなふうになったのかは、ここでは長くなるので触れないが、「団塊の世代、全共闘世代」の社会や政治に対する意識が、あまりにも貧弱であることを言っておくにとどめる。
それは、このブログで書き続けている「裁判員制度」についてのコメントでも明確に分るのだ。プログを読んだ知人の「おかしいと感じることが、おかしい」という言葉に私は一瞬、言葉を失った。「そんな風に物事を斜めから見て悪く考えるのは、パラノイア(強迫症)じゃないのか」と。
「裁判員制度」は明らかに憲法違反で、国民不在の、徴用による国家権力の強制であることは、少し考えれば分ることだと思うのだが、そんなことを言おうものなら「60年前の戦前ならいざ知らず民主主義の国だぜ、いまの日本は」と逆切れしてくる。若者顔負けで。
「戦後の日本が模範にしてきたアメリカをみろよ。福祉は切り捨てられ、健康保険制度は民営化されたために病院にも行けずに病魔に苦しみながら野垂れ死にする人間が何百万人もいるのだぜ」と言っても、「それはアメリカの話じゃあないか」と、我関せず。そのアメリカを親分とあがめて、われわれの国は忠実なポチ公として第二のアメリカになり下がろうとしている…と口腔泡を飛ばしても、聞く耳を持とうとしない。
「裁判員制度」はその親分アメリカの経済侵略、グローバニズムのフィナーレ、仕上げなのだよと言っても、もうこちらの言葉は届かない。
考えることを停止している、わが「団塊の世代、全共闘世代」に私は、一念発起して「裁判員制度」を真面目に考えてみることを勧めたい。日本の今を読み解くヒントがきっと分るはずだから。
押し入れの奥深く仕舞いこんだ、二度と開けることがないのに捨てずにずっととっておいた、黴臭い「思い出の函」の蓋をそっと開けてみてはいかがだろうか。見えなかったものがひょっとして見えてくるかもしれない…。
小説恐怖の裁判員制度.jpg『小説 恐怖の裁判員制度』


裁判員制度を本気で考える<その4>
裁判員制度を本気で考える<その3>
裁判員制度を本気で考える<その2>
裁判員制度を本気で考える<その1>
裁判員制度は現代の赤紙とも
――流れに任せていて大丈夫か?
posted by 鶴 at 14:54 | Comment(0) | TrackBack(7) | 日記